『点と線を結ぶその始点』
令和の年号になって6年経ちます。平成から新たな年に沸き立ち人々の顔に笑顔を齎した令和元年。
ですがその後、誰しもが想像さえする事の無かった新型コロナウイルスの出現。日本国内のみならず世界中が未曽有のパンデミックに陥り、その状況が日を重ねる毎に悪化していきました。
マスク着用が義務ではなくともしなければならないという世の中になり、一時はドラッグストア、その他の店頭からマスクが消えました。感染の第一症状が発熱、その後、呼吸困難やめまい、等の症状が出るケースが多かったと思います。
血液の中の酸素濃度が著しく下がる事で重体になる事もある。その事から、それまでその名称を聞いた事のなかったパルスオキシメーターがドラックストアを中心に販売され、それもマスク同様にすぐに品切れになるといった状況にもなりました。
また発熱は無くとも味覚がしないという状態から陽性反応になるケースもありました。人が多く集う場所が危険とされ、コンサートや大きなイベントの中止が起こり、それを行うミュージシャンや著名人が悪人のように周りから叩かれる事もありました。
根拠のない様々な情報が錯綜しSNS等で拡散、流布。捏造された話も数多にあり、人々の中に次第に不安と恐怖から、それがストレスの上昇になり、あちらこちらで大きなトラブル、人為的な犯罪も数多に起こり。医療の現場は崩壊寸前にまでいき、現場にいる医師、看護師の中には遺書をいつも懐に置き仕事に従事するといった事もニュースで知りました。
そんな混乱が約3年半、続きました。令和5年に入り次第にその状況が緩和し、少しづつ事態は好転していきました。コロナウイルスがインフルエンザと同等の『五類』というカテゴリーにまで下がり、無理にマスクをしなくても良い事を、政府が発表し街ではマスク無しで外出する人が多くなりました。野外イベントやコンサート等も復活し人が密集する事の怖さ、忌避感が消えていき、遠くへの旅行に行く方もまた増え、本当に少しづつですが人々の顔に笑顔が戻ってきました。眉間に皺を寄せていた人々の顔に昔のような余裕が戻ってきました。それが令和5年の下旬。元号が変わったほぼその瞬間から起こった嵐のような数年がやっと幕を閉じたかのように思いました。
年が変わり、西暦2024年、令和6年。元旦であるその最初の1日目。それは起こりました。石川県で起こったマグニチュード7を超える地震。世間はお正月で賑わい街のそこかしこでお祝いムードに沸き立つその夕方頃。震源地から東西南北、何百キロも離れた場所でも強い揺れを感じたその地震は過去に関西、そして東北で起こった大地震と同レベルの物だったようです。家屋は倒壊しビルもへし折れ、アスファルトの道路は亀裂で大きく割れ、また火災が起こり、倒れた家屋に閉じ込められた人の多くは被害にあったと聞きます。
その様子をテレビで見ていて、そこに映し出された光景はまさに阪神淡路大震災の時のそれだったように関西出身である私の目には映りました。令和6年1月初旬。これを書いてる今もまさに被害は続き、現地で被災された多くの人達の人命救助を国や企業、また個人が動き、救助、また支援物資の発送等に奔走しています。
1月1日、元旦から明けて2日には日本の窓口とされる空港で大きな航空機の事故も起こりました。空港の管制局と航空機側の連絡の行き違いから起こった事故だったそうです。それは空港で起こった事故の中では自分が目にした一番、熾烈を極める凄惨な現場だったように思います。
それらと新型コロナウイルスの脅威を同一視する訳では決してありません。ですが天災、人災の脅威は時代の流れの中で年代が変われど、いつどこで何がどのように起こるかは、その予測はまず出来ない物だと思います。それを改めて感じた新年度、その今、現在進行形、その渦中の『今』です。
天災であれ、人為的な事故であれ、一度そこで起こった人に降りかかった脅威はやはり人でなければ取り除けない物だと思います。過去の大きな震災事故。また国家間の争いである戦争などもそうだと思います。震災で被害にあった方への現地で必要な支援物資。食料や水、また衣服、毛布などは切実に命ある者にとって必要不可欠な物だと思います。それを日本国内の各食料メーカー、企業が支援し、個人が支援に必要な費用を寄付という形で現地へと送り、世界各国からの支援やエールの声もニュース等で聞いています。
個人はあくまで一つの『個』であり、この世に生まれ落ちて生きて死んでいく事は一個人の『私』だと私は思っています。ですが、つまる所、人は一人では決して生きていけない事もまた真実だと思います。縦の連鎖、横の繋がり、その絆から生まれる力は或いは一つの歴史を司る、大きな何かを動かす物なのかもしれません。
新年度に際し起こった大きな事象から、私的に思ったそれは一私見です。願わくば本年が良き年である事を切に願う者です。